私の中にある悲しみについて

一昨日ぐらいに自分の中に悲しみの感情があるのに気付いた。
気づいたというよりかは
ずーっとありすぎてそれが当たり前の状況だった。
もはや無意識に、悲しかった。世界に対して怒りを感じていた。

なぜ気づいたのか。

ある本に、
耳鳴りの原因が息子さんを失ったことによる悲しみからで、どんな内科歯科とかまわっても耳鳴りは改善されず、その悲しみに対する感じ方を変えたら耳鳴りが治ったというものだ。
その人は悲しいあまり、気づかぬうちに歯をかみしめていて、だんだんと顎がずれ、耳の神経を圧迫して耳鳴りがするようになったのだそうだ。

ということはつまり、ものすごく長い年月をかけて耳鳴りにまで至ったのであって、まだ少し違和感を感じる程度の違和感を右腰、右外腿に感じている私は、何らかの悲しみや怒り、怖れを持っているに違いない。と思った。
それと同時にその悲しみは、私の中に、私と一つになればいい。と思った。

そしたら、食べすぎてしまうことも自然と辞められるだろう、とそんな気がした。

食べすぎてしまうことの原因はやりたくないことをやらなければならないこととしてやっているからだと思っていた。
でもそれは根本的な衝動を悪化させた要因の一つで、本当の原因ではなかった。
悲しみについて2日ほど考えた。そしたら、買い物のときにそれは現れた。

それは、
スーパーに並ぶ、変に太らせた食材を手に取らなければいけない私。(いろいろ知りすぎたがために私が心の底から安心して食べれるものはスーパーにはなかなかない)
スーパーに行ったらまず安くなってるものに目が行ってしまう私。かといって安いものだとやっぱりホルモン剤だとかが心配になって結局は買えないで売り場をうろうろしてしまって、結局安いものをハントするしか能力がない自分にイライラすること。食べ物を「得る」という行為に、売り場にあるいいものを見定めて、それを「買う」ということしか知らない自分に非常に悲しくなるし、なんで自分はこんなところでこんなことをしているんだろう、と思う。
私は、この食材がどの季節にどこに生えていてどの季節に採るのが一番おいしいのか、どうやって保存するのか、それを知りたいし、私の脳みそはそれを思考し感じるためにある。
それなのにスーパーにはほんの数種類の野菜が年中変わることなく配置される。そして、私たちには「買う」という行為しか残されていない。
生きるということがこんなつまらないことであるはずがないのだ。
買い物に行くたびにこの思考が頭の中をぐるぐると巡る。
毎回毎回「それ」が自分を責め、自らを傷つけるような行為にも発展していったのかなと少し思った。

スーパーの存在と今の野菜、肉の存在が都会に生きるためには仕方ないことだということも分かっている。わかっているけど私の本能が、こんな生活は耐えられないと言っている。私は早く森に行くべきだ。森のものを食べたい。

そんなとき思い浮かぶのは、あの豹のマナコだ
動物園のガラス張りの狭い空間に閉じ込められ、決まった時間に死んだ肉が与えられ、見られるものとして生きていくことしか権利を与えられなかったあの豹だ。あの豹のあの生活はあれで幸せの一つだということも分かっている。そして自分自身をそのように投影してしまっておこがましいとも思っている。だがどうしてもそう見えてしまうのだ。私自身、上海という自然とは全く縁のない大都会で育ったにもかかわらず、まるで私は生まれる前からその野生の衝動を知っていたかのように、こんなにも自然を求めているのだから。

あの豹は今頃元気にしているだろうか。

あの時、あの豹は私と遊んでくれたが、若いうちに、ある程度の期間コンタクトをとり続けられる人がいなかったら、人間には興味を示さなくなって、その有り余る嗅覚や土地勘、獲物の探し方などの能力を持て余したまま、ただ小さい敷地の中をぐるぐる徘徊するだけになってしまうだろう。そんなのは悲しい。悲しくて仕方がない。
あんなにも素晴らしい小さな友達がそんな風にすさんで行ってしまうのが、悲しい。

悲しみについて、もう一つ。

私は、最近、目新しい、おいし「そう」なものに対する執着が異常だと気づいた。
その原因として思い当たったのが、ご飯を作るのに割く時間が無駄だと思っていたこと。
どうせ食べちゃうんだから、手間のかかる調理なんてしないで、簡単なものを作って食べればいいじゃんと思っていた。
だから私は過剰に、おいしそうに見えるものに執着する。のかもしれない。

それは、それだけ今、時間の余裕のない生活をしているから、ということもあった。

今日から、もう一度、一手間かけておいしいご飯を作ってみようかな。そして、ご飯をおいしもう。

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