2月 卒論を終えてようやく見えたこと。

大学にいた意味

今までにどんなに人格を否定されるような、ひどいことを言われても、ちっともダメージを受けなかった私が、悔しすぎて泣いた。

この研究室にきて、あの時ほど悔しかったことはない。

ただでさえない時間の中で、ようやく出した膨大な量のデータで、ずっと私がやろうと、昼夜いじり続けていたデータを、いともたやすく、何かの高度なソフトを使って解析し、自分だけで、楽しんでいる。

これじゃあ、学生はただのデータ集積のためのコマではないか。

なぜ、教えてくれなかったのか。

今となってはしかたのないことだとあきらめがつく。そこには想像を絶するほどの、突き詰めてきたことの深さによるうまるはずのない溝があった。ただ、許せないのは、それを嘲笑するような扱いを、したことだ。どれだけ、深く学んだとしても、人間としてどうあるべきなのかを間違えていては、生きている意味などない。

この話はここで終わりにしよう。

2月

卒論を終えた今、
分かったこと、もっと早くこうしていればよかったことなどについての反省点を記録しておく。

実験をしながら

目次を作り出したのが卒論発表の後だったこと。

これまでずっと実験をやってきたが、それが何のための実験か1月後半まで、自分が書く論文の流れの把握やどこまでやっていいのか、全体の把握が自分の中で全くできていなかった。

このような事態が起きたのは、先生の中では大体どんな感じでやればいいのか見えていたけど、それを私に伝えることをせず、ただ、これだけの量の実験をしろと言い渡されていたこと。なので、私の中で全体の流れが全く見えておらず、先輩の引継ぎでもないため、次にどう進めればいいかもわかっていなかった。

終わりがないがためにやる気がないのにただやり進めなければならないという状況に陥っていて精神的に参っていた。

先生との毎週の面談でも、先生の話す内容がとめどなく口から出てきて、無論私が言葉するだけの知識も勇気も到底足りず、録音して何度も聞きなおして、何が言いたかったのか、文字に起こしてまとめ直して。今考えると先生をコピーするただのロボットになっていた。

そして、よくないことに、先生もよくはわかっていなかった部分が多かったことからも、毎度話すことが変わることもあってなおさら流れがつかめずにいた。

先生のゆうとおりにせず、自分のやり方で進めないほうが悪いともとれるが、少しでも私はこう思うって主張?すると、先生は、俺はこんなこと言った覚えはないと脅迫、支配しようとするから結果的に先生が求めるものは何かを手探りしながらやらなければならなかった。

そんな場所からは何の革新的アイデアも生まれたりはしない。これだけは確かだ。

とにかく、この研究室を選択してしまったことは私の一生のミスで、この洗脳オンパレードのラボを無事卒業できたことが奇跡に近い。さようなら。もうこんな場所とは一生関わることはないでしょう。最高の反面教師としていい勉強になりました。

2022年8月末
訳あって研究室に進んだ友達と会う機会があり、その後の話を聞いた。
私が卒業後の1年間で、5人中4人が研究室を変えるかもしれない話になり、一人は大学自体をやめたのだそうだ。お金を出して学びに行く場所が、そんな環境であっていいのだろうか。
相変わらずあの先生はアカハラで純粋な若手を、自ら考える力を奪い、社会に出たときにただのコマにしかなれないような人の育て方をしているのか。

社会に出たときは一緒に働く仲間や師匠の人間性を最も大事にしよう。

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